ダブルスタンダード [でもクリ日記]
私はクリスチャンで、キリストに従うと心に決めたのですけれど、
世の中は、キリストの生き方とは正反対の価値観で動いています。
だから、クリスチャンになると、心の平安は得られるけれど、
同時に自分の中にあるキリストの生き方と、
そうではない世の中との間で、
絶えず闘いが繰り広げられるようになります。
特に戦後の日本に生まれた私は、
生まれた時からずっと、神様なんかいない、
能力の高い者が偉い、お金はあった方が良い、
地位は高い方が良い、
そうしないと、みじめな者として捨てられる、
という価値観の中で育ち、
日常生活でも文明の利器に囲まれて育って、
それらがない生活、というものを想像すらできないほど・・・
キリストは、
そんなものよりももっと大切なものがある、
それらをたとえ失ったとしても、神と人への愛を失ってはならない、
と、私の中で言い続けています。
でも、現代文明の価値観にどっぷりと浸かって生きる私は、
自分が「当然」と思っていたことに関して、
キリストが「そうじゃない」と言っていても、
聞こえないことが多いのです。
そして、愛のない、醜い選択をしてしまって、
自分や周囲がやっぱり傷ついてしまう、というようなことが
結構あったりします・・・。
でも、そうやって自分や周囲が傷ついたことがすぐにわかって、
悔い改めて、軌道修正できることは、まだ良いのです・・・
自分の無意識の中にしみついている、偏見やトラウマには、
自分でもなかなか気づけないから、
そういうものに自分が振り回されてしまっている時は、
キリストの声なんか、ほとんど聞こえなくなります。
自分や周囲が傷つきまくっているのに、
愛のない言動をず〜っと続けている、ということがたまにあります。
そんな時って実は、クリスチャンは、
クリスチャンでない人よりも質が悪い、
まるで悪魔のようだったりします。
ものすごく人を傷つけておいて、何とも思っていなかったりします。
(何せ、無意識だからね)
キリストをもう一度十字架にはりつけておいて、
「私は間違っていない」なんて言っていたりします。
礼拝メッセージで、自分の罪にあてはまることが語られたとしても、
そんな時は、「私のことじゃないもんね、○○さんのことだね」
なんて、他人事のようにスルーしてしまったりします。
あぁ・・・私にも気がついていない、
そういうところがあるんだろうな・・・
しかし、そういうものが、人を分断し、傷つけて、
人の心と身体を殺すものとなって行く・・・
恐ろしいことだと思います・・・
(歴史的にも、クリスチャンが時として恐ろしい残虐な行為を
していたりするのは、そのせいなのではないかと思います。)
そんな恐ろしい者でも、感謝なことに、
キリストに救われている以上、いつの日か、
その無意識の罪に気づいて、悔い改める希望だけは残されています。
(気づかないまま死んじゃうこともあるのかな?)
きっと、キリストは毎日、
私達が一つ一つの隠れた罪に気づいて、
悔い改め、本当のキリストの弟子になって行くことを
待っておられるんだな・・・
毎日、恐ろしい私の罪のために、血を流しながら、
私を支え、守り、導いて下さるんだな・・・
だから、今日も欠けたところだらけの私だけど、
希望を持って生きようと思います。
世の中は、キリストの生き方とは正反対の価値観で動いています。
だから、クリスチャンになると、心の平安は得られるけれど、
同時に自分の中にあるキリストの生き方と、
そうではない世の中との間で、
絶えず闘いが繰り広げられるようになります。
特に戦後の日本に生まれた私は、
生まれた時からずっと、神様なんかいない、
能力の高い者が偉い、お金はあった方が良い、
地位は高い方が良い、
そうしないと、みじめな者として捨てられる、
という価値観の中で育ち、
日常生活でも文明の利器に囲まれて育って、
それらがない生活、というものを想像すらできないほど・・・
キリストは、
そんなものよりももっと大切なものがある、
それらをたとえ失ったとしても、神と人への愛を失ってはならない、
と、私の中で言い続けています。
でも、現代文明の価値観にどっぷりと浸かって生きる私は、
自分が「当然」と思っていたことに関して、
キリストが「そうじゃない」と言っていても、
聞こえないことが多いのです。
そして、愛のない、醜い選択をしてしまって、
自分や周囲がやっぱり傷ついてしまう、というようなことが
結構あったりします・・・。
でも、そうやって自分や周囲が傷ついたことがすぐにわかって、
悔い改めて、軌道修正できることは、まだ良いのです・・・
自分の無意識の中にしみついている、偏見やトラウマには、
自分でもなかなか気づけないから、
そういうものに自分が振り回されてしまっている時は、
キリストの声なんか、ほとんど聞こえなくなります。
自分や周囲が傷つきまくっているのに、
愛のない言動をず〜っと続けている、ということがたまにあります。
そんな時って実は、クリスチャンは、
クリスチャンでない人よりも質が悪い、
まるで悪魔のようだったりします。
ものすごく人を傷つけておいて、何とも思っていなかったりします。
(何せ、無意識だからね)
キリストをもう一度十字架にはりつけておいて、
「私は間違っていない」なんて言っていたりします。
礼拝メッセージで、自分の罪にあてはまることが語られたとしても、
そんな時は、「私のことじゃないもんね、○○さんのことだね」
なんて、他人事のようにスルーしてしまったりします。
あぁ・・・私にも気がついていない、
そういうところがあるんだろうな・・・
しかし、そういうものが、人を分断し、傷つけて、
人の心と身体を殺すものとなって行く・・・
恐ろしいことだと思います・・・
(歴史的にも、クリスチャンが時として恐ろしい残虐な行為を
していたりするのは、そのせいなのではないかと思います。)
そんな恐ろしい者でも、感謝なことに、
キリストに救われている以上、いつの日か、
その無意識の罪に気づいて、悔い改める希望だけは残されています。
(気づかないまま死んじゃうこともあるのかな?)
きっと、キリストは毎日、
私達が一つ一つの隠れた罪に気づいて、
悔い改め、本当のキリストの弟子になって行くことを
待っておられるんだな・・・
毎日、恐ろしい私の罪のために、血を流しながら、
私を支え、守り、導いて下さるんだな・・・
だから、今日も欠けたところだらけの私だけど、
希望を持って生きようと思います。
トラブッちゃったから尚のこと、自分の『欠け』を感じます。
「欠けだらけのままでいいから、おいで。」
と呼んでくださる神様から、離れちゃいけませんね。
by ほるん (2010-10-31 01:13)
ほるんさん、
トラブッちゃう時に、自分の「欠け」を感じることって、
私もよくあります。
でも、トラブルがあること自体は、ヨブみたいに、
神様の御心、ということもあるから、
その辺、どこまでを反省?するのか、
見極めが難しいなぁ、と思います。(よく見極め損なう・・・)
by めう三毛女 (2010-11-01 18:36)
さくらそうさん、
ありがとうございま〜す。
by めう三毛女 (2010-11-01 18:38)