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手作りの信仰 [でもクリ日記]

月曜日からW教会で行われている、晩祷会に二晩続けて出席しています。
今日はそこで自分が証しを・・・(-_-;)
まぁ、それはさておき、
二晩続けて出て、みなさんのお証しや、お祈りを聞いていて、思ったこと・・・

それは、みんなが素手で神様と関わっている感じ・・・

お証しは、必ずしも、神様はこんなにすばらしいことをして下さった、
神様の恵みをたくさん感じた、ハレルヤ!
ということばかりではなく・・・
私はこのことでずっと悩んでいて、まだ神様から答えを頂けていない。
でも、それでもとにかく教会に来ることが自分にとって大切、
というお証しが、昨日ありました。

そういうお証しがみんなの前で語られるのは、私はあんまり聞いたことがなくて、
(見識がまだまだ浅いですね)最初は、
「ふーん、そんなのもありなんだ〜。」と思ったのですけれど、
でも、生身の人間が神様とともに生きて行く時、
どんなに信仰が深くても、
いつでもニコニコな日ばかりではないのだと思います。
何十年も答えの出ない悩みがあったり、
自分の弱さにいつも打ちのめされたりしていて、全然光が見えて来ない、
なんでいう日も当然あるのです。

でも、そういうことはお証しすべきではない・・・というような、
暗黙の了解のようなものが、私の意識の中にはあったのですが、
(実際に以前、そう教えられたような気もする・・・)
本当はそういうことも、神様の御業の外にある出来事、という訳ではないんだよなぁ、
苦しみや悩みの中にいても、今はとにかく信じてもがいている、
ということを正直に言うことも、
神様をお証しすることになるのではないかなぁ、と思い直しました。

そして、お祈り・・・人のお祈りをとやかく言うのは
ナンセンスではありますが、
ちょっと人間的なものの見方で言ってみると・・・

私がこれまで知っていたお祈り・・・特に信仰深い方々のお祈りというのは、
常套句がたくさん出て来て、言葉が流れるように出て来て、
整ったお祈りをする、というイメージがあり、
(実際に、信仰が成長すると、上手にお祈りできるようになる、
と教えられました。)
そういうお祈りができない私は、まだまだなのだなぁ、
(でも、一生できなさそうだなぁ)
と思っていたのですが、

W教会のみなさんのお祈りは、あんまり流暢じゃない。(^_^;)
役員さん達でも途中で言いよどんだり、
「えー・・・」と、しばらく黙ってしまったりして・・・
(礼拝の時のお祈りは、またちょっと違いますが)

でも・・・何だか言葉が心にしみる・・・
その人が、本当にそう思ったり感じたりして、
それに合う言葉を一生懸命に探しながら、神様に話しかけている、
というのが、伝わって来るように思うのです。

何というか・・・素手で神様を探し、
素手で自分の人生や信仰に立ち向かっているような・・・
そんな感じがします。

神様への近づき方って、色々あると思うし、
流暢な祈り方が悪いとか、良いとか、そういうことではないですし、
神様に向かって真摯に祈られた言葉は、
どんな言葉であっても神様は受け止めてくださるのだと思います。

でも・・・何だか格好は多少悪くても、
何も持たずに、不器用に、神様に向かっているような、
祈り方やお証しが、
とても私に合っているような気がしました。

(って、結局はだらだらリラックマするのが好きなだけでしょ、
っていうツッコミはしないでね。)
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証しをすることになった [でもクリ日記]

来週は、クリスチャンにとっては、
復活祭の前の、受難週です。
イエス様が十字架にかかられたことを思いつつ過ごす
一週間です。

人によっては、食べ物を質素にしたり、
好きなものをがまんしたりしながら、
イエス様の痛みを思うらしい・・・
私が通っているW教会でも、先日伺ったところ、
肉断ちをしている方がおられるのだとか・・・

チョコレートの好きな私は、
チョコレートをがまんして・・・とちょっと考えたけど、
でもクリなので、すぐにやーめた!ヽ( ̄∇ ̄;)ノ

それはさておき、
教会によってイベントの内容は違うと思いますが、
私が通っているW教会では、受難週には毎晩祈祷会があります。
木曜日は特にイエス様が十字架にかかられる前夜、
最後の晩餐にあたるため、特に礼拝があるようです。

それで、木曜日以外の祈祷会では、
毎晩一人ずつ信徒が証しをするそうなのですが、
なぜか私が水曜日に証しをすることになってしまいました。

なんで、新参者の私が!?と思うのですが、
1ヶ月前のこと、牧師のM先生からお電話があり、
「音楽家のあなたが、なぜホームレス支援に携わるようになったのか、
ということを証ししてほしい。」とのことでした。

音楽家がそういう活動をするって、珍しいのかなぁ?
確かにあんまり炊き出しの場で音楽家に出会ったことはないなぁ。
(音楽療法方面の方にはたまにお目にかかりますが)

という訳で、原稿がないと証しできない私は、
目下作文中であります。

ホームレス支援についての証しは、以前このブログにも
書いたことがあったのですが、
http://meou-mikejo.blog.so-net.ne.jp/2008-07-14
今はまた、あの頃とは違ったところもあり、
全面的に書き直しています。

W教会は、路上の人々に限らず、
色々な助けを必要とする人々に、教会として積極的に関わって行く教会です。
(そのために、M牧師は忙しすぎてアステン状態だけど・・・(^_^;))
そして牧師や教会員が、一人一人個人的に関わっている活動も
たくさんあります。

だから、私がホームレス支援をしていることも、
教会の中で特別なことでも、排除すべきことでもなく、
クリスチャンがイエス様に仕えるために行っている活動の一つ、
として、自然にとらえて頂けます。
(それが教会のあり方としては当たり前のことだとは思いますが、
以前そうではない環境に置かれていたので、
今の教会のそういう姿勢がとてもありがたいです。)

だから、自分の活動について祈ってほしいことや、
相談に乗ってほしいことがあったら、
いつでもお話を聞いて下さったり、
祈って下さったりします。

だから、昨年からの自分の活動を振り返ってみると、
そんなW教会に所属していたから、これができたんだなぁ、
というようなことが、いくつもあります。
教会から派遣されて、イエス様に仕えるって、
(まぁ、そんなに大仰なことではないのですが・・・)
何て大きな恵みなのだろう、と思います・・・。

という訳で、証し、がんばって仕上げようっと・・・。
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沖に漕ぎ出す [でもクリ日記]

2週間前に教会で聞いたメッセージが、
とても心に残っています。

いつものM牧師ではなくて、交換講壇で来て下さった先生でした。
(交流している教会同士で、お互いに牧師が出向いて行って、説教します)

一晩漁をしたのに全くお魚が獲れなかったペテロ達に、
イエス様が、沖にもう一度出て、漁をしなさい、とおっしゃいます。
そして、ペテロ達はそれに従って沖に出たところ、
今度はものすごい大漁になったという話。
(ルカ5章)

その先生は、「徒労と思えることでも、神様がともにいて下さるなら、
思い切って挑戦する・・・徒労への挑戦が、私達クリスチャンの生き方」
とおっしゃいました。
そしてもちろん、神様はそれに余りあるほど応えて下さる・・・。

ちょうど、私が関わっているtenohasiでは、
路上の方が一時身を寄せることのできるシェルターを
作る話が持ち上がっていますが、

私達がやろうとしていることは、普通に考えたら、
「ありえないこと」「誰もやろうとも思わなかったこと」
だろうと思います。

まさに「徒労」であり、
「そんなことできる訳ないじゃん。」ということです。

でも、それをあえてしよう、というのですから、
まさに「徒労への挑戦」なのです。
多分、「あんたら、バカじゃないの?」と言われるような企てです。

先日実は、あぁ、もうだめかなぁ・・・と思いました。
なぜならば、自分達でシェルターを経営するのをあきらめて、
別の団体・・・既にシェルター経営に成功していて、
ノウハウをよく知っている団体・・・に経営を頼もう、
という話が出てきたのです。

そして、名前が上がったのは、私達が名前ぐらいは知っているけれど、
スタッフの交流も、学びの機会もあまりない団体。
私達がやろうとしている「徒労」を、どこまで理解してもらえるかは
わからない団体でした・・・。
(もちろん、そこはそこで、すばらしい経営をしており、
それゆえこの不況下でさえ立派に立ち行くことができているのですが・・・)

何だか、名前ぐらいしか知らない人と、
「申し分ない、良い人なんだから。」と、政略結婚させられる気分・・・
あぁ、私達が思い描いていたものとは微妙に違うものが実現して行くのかなぁ、
と思っていました。

ところが、神様の助け・・・
私達が1つの成功例として学び、交流して来た団体が、
私達のシェルター経営においても協力して下さることに
なったのだそうです。
(これまでおつきあいして来たあこがれの君と協力、という感じ?(^_^;))

・・・やっぱりこのシェルター作りは、
神様の御心なんだ、と思いました。

そして、もう1つ、神様の御心を感じていることがあります。

このシェルター作りのために苦労をして下さっている方、
(この方も相当な妖怪と思われる・・・図鑑には未掲載ですが)Aさんは、
私がここ数年、いつかはこの方の下で働きたい、と祈って来た方なのです。
(神様からの特別の使命を負った方だと私は信じています。
本人はどう思っていらっしゃるかわからないのですけれど・・・)

私が想像し、祈って来た形とは少し違う形なのですが、
でも、私の祈りがかなう形で、
この方と協力する立場になりつつあります。
(といっても、私の力は微々たるものなのですけれどね・・・)

あぁ、主にある徒労への挑戦は、絶対に無駄に終わらない。
誰が何と言っても、どんなに状況が絶望的であっても、
どんなに「ありえない」と笑われても、
このシェルター設立は必ず成る、と確信しました。

なぜなら、それが神様の御心だから・・・

何だかそう考えると、とんでもない「徒労」が、
ものすごくワクワクするものに思えて来るのでした。

(まぁ、これからも大変で、困ったり、うなったり、泣いたり、
時には絶望したりして行くのだとは思いますが・・・(^_^;))
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弱音(ひとりごと) [でもクリ日記]

最近、そういうお年頃なのか、
体調がすぐれないと同時に、精神的にも不安定というか、
少し抑うつ傾向にあるように思います。

ここ数年・・・
いつも微熱がある。
時々、本当に動けなくなるような疲労感に襲われる。
からだのリズムが狂っている。
(もともと虚弱体質なんだけど・・・)

そして、活字を読むのがおっくう・・・例えば
 ここ数年、新聞をあまり読めない。
 (購読しているのに、ダンナさんだけがセッセと読んでいる。)
 本を読むのも、何だかおっくうになって来た。
 ここ数ヶ月、聖書もなかなか読めない。

家事をするのがおっくう。(もともとダメ主婦だけど)
ストレスのかかる仕事が辛い。(一つ、本当に辛くて仕方がない仕事がある。)
人の目が気になる。
夜更かし気味。
パソコン中毒気味・・・
なのに最近は、ブログもあまり更新できなかったり、
大事なお友達へのメールのお返事も、なかなか書けなかったりしています。
(不義理してしまっているお友達、ごめんなさい。)

私は神様に生かされている。
私は神様に愛されている。
私の人生はすべて、神様に導かれている。

ということが信じられなくなった訳ではない・・・
頭ではそれはよくわかっている・・・のに・・・

他の人に悪く思われることが怖かったり、
自分のしていることが、意味のないことに思われたり、
自分の存在がこの世で最もクダラナイように思えたりする・・・
また、体調や気分がすぐれなくて思うことができない自分を
自分で責めて、ますます辛くなる・・・

そんな時こそ聖書を読めばいいのに、
祈ればいいのに・・・

聖書をやっとこさっとこ開いて読んでも、
言葉の意味はとりあえずわかるけれど、
その行間に息づいているはずの、神様の命や愛に近づけない。
(それができなきゃ、聖書は
「もう何遍も読んだ、ストーリーをよく知っている本」に過ぎなくなってしまう。)
お祈りしていても、心が何となくうわすべりして行く・・・
(主の祈りを心の中で祈っていても、
途中で思考がフェードアウトして、最後まで祈れなかったりする
・・・神様ごめんなさい。)

う〜ん・・・この文を書いていても、
実は書いている自分と、本当の自分に、少し距離があって、
心の中だけ、どこかにおこもりして、外界と断絶しているような気がします。

やっぱり、そういうお年頃なのか・・・?
ふぇ〜ん・・・(;o;)
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新しいことの内容 [でもクリ日記]

9月になって、前の日記にも書いたように、
新しいことを始めて、言い出しっぺゆえにまとめ役をやっている私です。

それは何か・・・説明が長くなりそうですが、
短く言ってしまえば、路上の人々の支援において、
困っている人の中でも一番困っている人・・・つまり、
心身障害等のために、公的な支援からも漏れ、
役所も施設も病院も受け入れてくれないような人を助ける働き・・・
の「お手伝い」です。

もともとtenohasiには、福祉班という少数精鋭部隊?がおり、
池袋近辺の、本当に処遇困難な人々の生活と命を救って来ました。
(福祉班はいつも2人か3人しかいない、
一時多くなったこともあったけれど、なかなか続けられる人がいない・・・
それで自ずと少数精鋭になってしまうのですね・・・
現在は、私の妖怪図鑑に載っている、BさんとNさんと、
図鑑には載せていないけれど、絶対に妖怪のT岡さんです。)

この班は、普通に生活保護申請のお手伝いや就労支援などもするのですが、
大きな特徴として、「どんな人も絶対にこちらからは見捨てない。」
という暗黙の了解・・・いえ、「確固たる信念」と言っても良いような、
そういうものがあります。

従って自ずと、困っている人の中でも一番困っている人を支援する、
ということが、この少数精鋭部隊の大きな仕事になっています。

でも、もちろん公的な支援も見放すような人々なので、
一人一人のケースがとても難しく、複雑な問題を抱えていることが多いのです。
(いくつかの複合された心身の障害を持っておられることが多い)
対応の仕方も一人一人違って来ます。

また、もともとの病気に加えて、そういう人は長い間、
周囲からいじめや虐待を受けて来るため、
心を閉ざしておられるような状態の方がほとんどです。

それを、時間をかけてゆっくりと少しずつ信頼関係を育んで行き、
その人に必要な支援を本人といっしょに考えて行き、
同時に色々な施設や役所や病院と掛け合う・・・

そういう、気の遠くなるような支援を、tenohasi福祉班は
ずーーーーっと、2〜3人でやって来たのです。

ものすごく、大変・・・時間的にも、体力的にも、精神的にも・・・
誰にでもできるものではないと思います。

おまけに、tenohasiは貧乏なので、福祉班に、保護した方の食事代等の
必要経費は出すけれど、お給料なんて一切出ません・・・
ボランティアなんだから当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、
でも、必要があれば自分のバイトをキャンセルしても、休日が一日も取れなくても、
生きるか死ぬかの人の支援に走らなくてはならない、ということもある訳で、
本当に、ボランティアの域を超えているような、ボランティアなのです。

でも・・・彼らがいるから、死なずに済んだ人達、
受けるべき保護を受けられるようになった人達がいるのも事実・・・

それを周囲が、「あんた達の自己責任でやっているボランティアでしょ」
と、言ってしまえば・・・まぁ、そうなんだけどね・・・
でも、そこに人として何らかの「申し訳なさ」や「責任」というようなもの、
普通の感覚を持っている人だったら、感じない人はいないのではないか、と思います。

また、クリスチャンとしても、何らかの重荷を感じるのではないか、と思います。
だって、そういう人達こそ、この世で最も貧しい形を取って、
私達の前に現れて下さった、イエス様その人だと思うから・・・。

という訳で、私にとっても、人として、またクリスチャンとして、
決してスルーしてはいけない人々であり、
スルーしてはいけない働きなのでした・・・

でも、あんたはじゃあどうするの?と問われると・・・
その支援の必要を尊敬し、応援はしていても、
実際は仕事があり、家庭があり、その働きにすぐに身を投ずる訳には行かない、
というのが自分の立場でした。

自分の今の仕事や家庭だって、神様から自分が頂いた、
大切なものなのだから、ないがしろにしたり、
捨てたりするのは御心ではないのだと思います。
神様の特別の召命があれば、それは別だと思いますが、
私には神様から、仕事と家庭を捨てよ、という召命はありませんでした。

それどころか、私の場合、そもそも路上の人々に仕えるように召されたのは、
私一人ではなく、ダンナさんと二人で働くように、ということだったのです。
(私が独身だったら、神様は私を召しておられないと思います。)
だから、私の場合は、家庭を犠牲にしたら、路上の人々に仕えることの
根底が崩れてしまうことになるのです・・・。

何かしたい・・・でも、できない、どうしたら良いのかわからない・・・

実はこういう思いが最初に私の心に与えられたのは、
4年前、私がそもそもホームレス支援に携わるようになってからすぐでした・・・。

当時からずっと、何かできないか・・・?と考え続け、
福祉班の方から特に軽いお手伝いの要請などがあると、単発で応じたりはしていました。
(保護した方が病院に入院しているのをお見舞いをする、とか、
通院につきそう、とか、痴呆症の方が迷子にならないように、散歩につき合うとか)

でも、転機はこの8月にやって来ました。
何回かこの日記にも書きましたが、
アルコール中毒の女性が、24時間飲まずにいられるように、
見守りをしながらいっしょにお泊まりをする、という手伝いをした時、
私のように、福祉班を単発でお手伝いしている人が、
他にもいるようだ、ということがわかりました。

またその時に、見守りお手伝いの人を、福祉班のBさんが、
たった一人であちこちに電話をして見つける、という作業もしていて、
(しかも同時に、他の何人かをも支援している訳で)
ものすごく大変そうなのを見ました。

そして、めったに弱音を吐かず、いつもポーカーフェイスのBさんが、
とうとう私に、「私はこの半年、休日が一日もなくて、仕事にも行けていません。
もうすぐ倒れるかもしれません。」と言うではないですか!?

そりゃあ何とかしなくちゃ!と考えついたのが、「お手伝い班」です。

それは、福祉班のようには、多くの時間も労力も裂けない、
知識や経験もない、
そういう、私のようなど素人の者でも手伝えるような、
「お見舞い」「つきそい」「見守り」等を手伝いたいと思う人でグループを作り、
福祉班と連携して働いたらどうか?というアイデアでした。

そして、お互いに忙しい人同士が効率良く連絡を取り合うために、
ネット上のカレンダーやメーリングリストなどを活用して、予定を共有し、
福祉班の人が書き込むお手伝いの必要な日と、各メンバーのフリーの日を合わせて、
その時々に行ける人がお手伝いに行く、というシステムを作ったらどうか、
と思ったのです。

それで・・・
8月の半ばぐらいから、色々と構想を練って、
tenohasiのみなさんにもご意見を頂いたり、参加を呼びかけたりしていたのですが、
9月11日、マザーの炊き出しの後、記念すべき第1回の準備ミーティングを持ち、
今はまだ、正式発足ではありませんが、
ネット上に作った共有カレンダーにみんなで予定を書き込んで、
福祉班とお手伝い班がいっしょに活動する、という試運転が先週から始まったところです。

まだまだどうなって行くかわからないのですが・・・
でも、実際にこのカレンダーを使って、多くの人が自分の生活を守りながらも、
フリーの日に福祉班の手伝いができるようになりつつあります・・・。

ゴミ屋敷のゴミを片付けに行ったり、入院中の方のお見舞いに行ったり、
病院へつきそったり・・・

また、今回のお手伝い班には、
本当に多彩な、すばらしいメンバーが備えられているように思います。
(まだまだ、未知の方もおられますが・・・)

色々な立場の、色々な考え方の、色々な人が、
みんないっしょにニコニコできる場所・・・
福祉班の人も、お手伝い班の人も、そして支援される人も、お互いに助け合うことで、
困難に立ち向う力が与えられる場所・・・
御心ならばそういうお手伝い班にして行きたい、と、願いつつ、
でも、私の思いが成るのではなくて、御心が成って行くように、
祈りながら進んで行きたいと思います。
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決死の風邪ひき [でもクリ日記]

下の日記に書いたこと、
http://meou-mikejo.blog.so-net.ne.jp/2009-09-16
それなりに気をつけていたつもりだったのですが、

やっぱり自分のからだの管理をちゃんとすることができず、
とりあえず私がここまではやらなくちゃ、
と思っていたところまでやり終えたとたんに・・・風邪で寝込みました。
(^_^;)

今はもう随分良くなったのですが・・・。

21日の夜、さぁ終わった、と思ったとたんに、
いきなり吐き気におそわれ、まっすぐ歩くことができなくなってしまいました。
そして、その夜のうちに熱が8度9分まで上がったので、
私は「これは絶対に新型インフルエンザに違いない」と確信。

何故ならば、私は昔から、虚弱体質ゆえに、熱には結構慣れていて、
9度以上の熱があっても、結構平気で歩くことができたりする女なのです。

でも今回は、いつもよりずっと、辛い・・・歩けない・・・

これは、いつもの菌やウィルスではないようだ・・・

・・・と来れば、今流行の新型インフルエンザではあるまいか!?

と私は布団の中で、熱と背中の痛みと吐き気と荒い呼吸の中で考えたのでした。

そしたら、次に考えたことは・・・

私、これで死ぬかもしれない・・・

ということでした。

というのは、数日前に見たテレビ番組で、
新型インフルエンザは次第に猛威をふるい、
若くて健康な人の命も奪い始めていると報道していました。

だったら、私みたいな虚弱な奴の命なんか、
あっという間に取るかもしれない・・・

と思ったら、




意識のあるうちに、遺書を書かなくちゃ・・・と思いました。(^_^;)
(最後は意識混濁になるようなので)

この「めう日記」を長期間お読みになって下さっている方々は、
「あれっ?いつかめう三毛女は、遺書を書かなかったっけ?」
と、お思いだと思います。

ハイ、確かに書きました。あの時は、鳥インフルエンザに備えて・・・

http://meou-mikejo.blog.so-net.ne.jp/2008-01-16

でも、時間が経って・・・内容が合わなくなった・・・
というよりも、紙がボロくなって、こないだ捨てちゃったのです。
(^_^;)アハハ・・・

という訳で、今このまま意識が亡くなって数日後に死んだとしても、
私は周囲の人達に何も遺せない訳だ・・・
そしたら、書くしかあるめぇ・・・
と、なぜだかここだけ江戸歌舞伎みたいに心の中でキメた私。

でも、隣の部屋にいるダンナさんに、
「ちょっと、遺書を書くので紙とペンを下さい。」と言う訳にも行かないので、
吐き気に耐えながらフラフラと起き上がって、部屋の中を物色・・・
そしたら、いずれ買い物メモにしようと放っておいた、
印刷物の裏紙がありました。
ペンは、ダンナさんのボールペンを拝借しちゃえ・・・

という訳で、ベッドの中で、遺書を書き出しました。
といっても、高熱と吐き気と背中の痛みの中で書くので、
休み休み、少しずつですし、当然字もヨレヨレですけれど、
本当に死ぬ前に書いているんだからいいじゃん・・・
と、馬鹿みたいなことを考えていました。

その時は自分が死ぬかも・・・ということをかなりリアルに感じていたのですが、
その時に私の心にあったのが、まずは「平安」だったことは、
私にとって、とてもうれしいことでした。

もうすぐイエス様が迎えに来てくれるんだ〜♪
大好きなおじいちゃんに会えるんだ〜♪
Yさんにも会えるんだ〜♪
Kさんにも会えるんだ〜♪
(他にもたくさん会いたい多くの人のことが頭に浮かび・・・)
・・・と信じることができて、

私の人生がここで終わるのが御心なら、終わってもいいや、と
基本的には思うことができたのです。


ただ、このまま私が死んだら大丈夫なのか?と思ったのは、ダンナさんのこと。
死ぬ時もいっしょ、って約束していた(神様にそうお願いしていた)けれど、
私が先に行っちゃうことになるのか・・・

ダンナさんの悲しみは、逆のこと(ダンナさんが先に死んじゃうこと)を考えると、
とても大きな悲しみになるのがわかります・・・それが申し訳ない・・・

ダンナさんは、私が死んだら自分も後を追って死ぬ、と言っていたけれど、
それだけは阻止しなくては!と思いました。

そこで、ダンナさんにありったけの愛をこめて、謝罪の言葉と、感謝の言葉と、
絶対に自分で死んではダメです、と書きました。

また、両親達や、お友達を悲しませることも、申し訳ないなぁ、と思いました。
だから、両親達と、何人かの近しいお友達にもあてて書きました。


それから、自分が死ぬにあたって嫌だなぁ、と思ったのは、
実際に呼吸困難になった時などに、つらかったり苦しかったりすることでした。

でも、その時が来たら、各々が神様から与えられる試練で、
楽に終わるのか、たくさん苦しむのかは、わからないのだから、
悩んでも仕方ないよね・・・

遺書は本当にヨレヨレの文字でした。
それでも何とか書き上げられた時、
「さぁ、これでいつでも意識なくなっても良いぞ。」と、
私はとても満足なのでした。

でも結局、意識はずっとなくならず、
私は「気持ち悪い」「背中痛い」「頭痛い」「熱い」という感覚の中で、
一晩過ごしたのでした。ふぇ〜ん・・・

***************

そして翌日、近くの休日当番の診療所(シルバーウィーク中だから)を
ヨレヨレになりながら訪ねました。
(ダンナさんに連れて行ってもらいました。)

そして、診て頂いたのが、また別の意味でヨレヨレの先生・・・
と言ったら失礼ですね(^_^;)、かなりご高齢の先生でした。
(シルバーウィーク中にシルバーの先生が当番医なんて、
ちょっと野暮すぎないかい、W市の医師会・・・)
そして、私の鼻の穴に綿棒を突っ込み、インフルエンザの検査をして下さいました。

10分ほどして呼ばれました。
私はもう、新型インフルエンザの可能性があります、と言われる覚悟は
できているのでした・・・。

しかし・・・

先生は眼鏡を上に上げて目を細めながら検査結果をご覧になり、
「あの〜ですね、インフルエンザの結果が出ていないんですわ。」
とおっしゃいます。

「えぇ、そうなんですか?」
ちょっと、キツネにつままれた感じ・・・

私があんまり信じていない顔をしていたからなのか、
その結果を私に示し、「ほら・・・ここに何も出ていないでしょう?」
と、私の検査結果と、インフルエンザだった場合に現れるマークを
私に見せて下さいました・・・。

本当だ、A型も、B型も、他の何型も、何のマークもない・・・

これはただ苦し〜いだけの風邪だったんかい!? チャンチャン♪

という訳で、私の命はとりあえず延びたのでありました。(^_^;)

********************

まぁ、色々と考えてじたばたしたのが、今回は空振りだった訳だけど、
これでまた、ちゃんと遺書が書けたし(今度ちゃんと清書しておこう・・・)、
いつ死んでも満足、とその時は思えたし、
(でも、これでいて、次に違う形で何かあった時には、やっぱり
生きようともがくのかもしれないな・・・それが人間かもしれない・・・とは思いますが)
それなりに収穫はあった、としよう・・・

それにこの冬、冗談ではなく、私は新型インフルエンザにかかるかもしれないし、
体力のあまりない私は、その場合はやはり死にさらされる可能性があります・・・。

その、予行演習だったのかもしれないし・・・

まぁ、先のことは先のこと。
今日は今日の労苦(風邪)の心配をしよう・・・と思います。
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自分に言い聞かせる [でもクリ日記]

今、少しばかり新しいことに関して、ガラにもなくまとめ役をすることになり、
ちょっと熱くなっている私です。
その内容についてはまた、後ほど書かせて頂こうと思いますが、
もともとまとめ役なんかには向いていない私なので、
今はとりあえず、自分の弱いところに関して注意するように、
そして、自分の勝手な思いに傾いて行かないように、
自分に言い聞かせようと思います。

♪めう三毛女は、良く言えば凝り性、悪く言えば嗜癖の傾向があるので、
あんまり入れ込みすぎて、そればかりにならないこと。
(でもなっちゃうんだよね〜、昔から・・・)

♪休憩をちゃんと取ること。

♪やり過ぎて、自分の中で完結しないこと。
おおまかな枠組みを組んだら、あとはみんなに好きなように動いてもらうこと。
(もともと作曲家のせいか、全部自分で設計しちゃおうとする癖が・・・)
初めの時期が過ぎたら、少しずつみんなにも手伝ってもらって、
その分はどんどん信頼して任せよう。

♪苦しくなりそうなことを、無理してやろうとしないこと。
本当にやりたいことなのか、ただ義務感や、
不安の解消からやろうとしているのかをよく見極めること。

♪自分の心とみんなの心をよく見ること。人の心に関して無神経にならないこと。
かと言って、神経細かくギスギスしないこと。

♪話し合いを大切にすること。
メールやネットでは通じ合えないことがあって、
やはり会って話さなくてはならないことがあることを忘れないこと。

(突然別件だけど、会って話したいお友達がいるよ〜・・・しくしく・・・(;o;))

♪ものごとには時間が必要な時もある。
ものごとや人の心を客観的にながめるための時間、
ものごとが時間を経て少しずつまとまって行くための時間・・・
神様に委ねる時間、と言っても良いのかもしれない。
そういう時はあせらずに待つこと。

♪まとめ役は、仕える役。
上から目線になることは、自分と相手への裏切り、
そして、イエス様への裏切り。
傲慢な私には、完全に守ることは難しいかもしれないけれど・・・
いつも足を洗って下さるイエス様を思い出すこと。

♪間違ってもかまわない。
でも間違ったら、すぐに謝るべき人に謝ること。
面倒とか、そんなに重大じゃないとか、そういう風に考えない。
(微妙な時は、聖霊にたずねよう・・・)

♪間違った人を責めないこと。自分自身も含めて・・・
間違った人を責めることは百害あって一利なし。御心ではない。
間違った理由を考えて、今後に生かすこと、
そして本人が自分で責任を取ることは大切。

♪御心が成るように祈ること。
大切なことは、私の思い通りになることではなくて、
神様のご計画が成ることである。
色々と努力してもうまく行かないことは、神様がお望みではないと知ること。

♪規則正しい生活を取り戻すこと。
(これが結構私には難しい?・・・でもまぁ、
できる範囲でっていうことで・・・(^_^;)・・・
っていうか、それなら早く寝ろっ!
→何か集中したいと思うと、すぐ夜やろうとする、作曲家体質・・・)

まだ他にもあるかもしれないけれど、とりあえず・・・

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自分を「然り」とする [でもクリ日記]

昨日の礼拝で、
第2コリントの1章(下記は19節〜20節の抜粋)から、
神様の「然り」、つまり、存在の肯定ということについて学びました。

「わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、
あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、
「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。
この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、
ことごとくこの方において「然り」となったからです。」

私は自分の肯定があまり得意ではありません。

幼い頃から、「おまえはダメだ」「おまえは怠け者だ」と
言われ続けて来たからです。

だから、今でも、自分が「したいこと」と、
自分が「しなければならないこと」について、
正しく判断できないことがあります。

つまり、自分が絶対にしたくないことなのに、
みんなが期待しているから、とか、誰もする人がいないから、
という理由で、自分のするべきでないことに手を出してしまうのです。
そして、その結果自分が苦しくなり、
それでもギリギリまでがんばってしまうために、
最後には自分と周囲に、大きなダメージを被らせることになるのです。

でも、クリスチャンになってから、私は少し変わりました。
それは、自分が自分をどうしても肯定できない時でも、
私を必ず肯定して下さる、神様がおられるようになったからです。

(地上では、ダンナさんも私を肯定してくれます・・・
天使のダンナさんに感謝(注:一部おのろけカテゴリー)(^_^;))

自分の本当の気持ちや自分のするべきことがわからなくなった時、
私は神様のもとに戻り、祈ることができます。

そして、それを自分がするべきことなのか、
それとも、しないでおくべきことなのかを
かなり見分けられるようになって来ました。

そして、失敗をしたとしても、
何もできなかったとしても、自分を必要以上に
責めなくても良いということもわかって来ました。
(冷静に原因を分析して反省する、ということはしますが)

第二コリントにある、神様の「然り」は、
そういうことに繋がって行くのだと思います。

自己中になる訳ではなく、傲慢でもなく、
ただ、私が神様から作られたままの私として生きるために、
神様のもとへ戻り、神様からの「然り」を頂くのです。

それは、私の中にある「否」をすべて消し去り、
絶望の中にいる人をもう一度立ち上がらせ、
死ぬべき人を生かす力があるのです。
(これは霊的な意味でです。
めうは、超現実的な「癒し」や「復活」は、あり得るとは思いますが、
それがなければ信仰がダメとか、そういう風には考えていません。)

******************

・・・今、自分を否定しまくることで、
自分と他人を傷つけ続けている人がいます。
今は周りが何を言っても、何をしても、
自分を傷つける以外の道が見えない・・・そんな状態です。

その人に私が何ができるのだろう・・・?

はっきり言って、私は何もできません。

他の人もほとんど何もできないのだろう、と思います。
そして、これからも、誰も何もできないと思います。

でも私達は、その人の上に、神様の力が働くことを祈ることはできます。

そして、いつかその人が、神様から肯定されていることを知り、
どこまでその人が落ちても、必ず支えられていることを知り、
いつか力を得て、自分の足で立ち上がることができたら・・・
と、希望を持ち続けることはできます。
だから、あきらめずに、ずっと祈って行こうと思います。

私はその人の友達になれるでしょうか・・・
御心ならば・・・
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K子ちゃん・・・!? [でもクリ日記]

ううむ・・・今回の記事のカテゴリは、
「でもクリ日記」とするべきか、
「妖怪変化な日々」とするべきか、悩んだのですが、
まぁ、一応教会に関することなので、
「でもクリ日記」としました・・・
でも、教会の誰にも言えない、私だけのヒ・ミ・ツ・・・
(^_^;)(^_^;)(^_^;)

私は6月に近くのW教会に転籍してから、
実に月に1〜2回のペースで、礼拝奏楽を担当しています。

W教会の礼拝奏楽で使う楽器は、
かなり年季の入ったヤマハのリードオルガンで、
前の教会のものと、外見はあまり変わらない・・・
というか、前の教会のオルガンよりもずっと古くて、
あちこちにキズがあったりして、見栄えはボロいのです。

でも、音色が、何とも良い・・・
というか、弾いていてとても気持ちが良いのです。
聖霊が優しく降りて来るような気分になります・・・

それは、楽器学的に言えば、長い間多くの人々に弾き込まれて、
オルガンとしての鳴りが良い状態になっている、
と説明できることなのかもしれません・・・

でも・・・私がオルガンを弾きながら聖霊を感じる時、
私という小さな者が今出しているオルガンの音の中に、
多くの人々の信仰と祈りがつまっているように思うのです・・・
みんながキリストにあって心を一つにして祈って来た、
その歴史も、今ここで祈っている私達の祈りも、
すべて私が弾く音として出ているような気がするのです・・・

そして、更にその感覚は、W教会という地上の教会を超えて、
御国の教会で世界中の歴代クリスチャンの信仰が
御霊によって一つになることをも思い起こさせます・・・
(いえ・・・別にそんなに壮大な音がする訳ではないのですが・・・
リードオルガンですし・・・)

だから、この教会に移ってから、
オルガンを弾くのが好きになりました。

家から歩いて5分のところに教会があるのを良いことに、
時々教会のオルガンを練習しに・・・というか、
楽しみに行っています。
(めうよ、道楽で奏楽をしているのかいっ!?)

しかもW教会は、いつでもドアが開いていて、
礼拝堂が他の行事で使われていない時は、
誰にもことわらずに使って良いので、気軽に行っています。

・・・ここからが我ながらおかしいと思うのですが、
あんまり素敵な音を出して、私やみんなの礼拝を支えてくれる
このオルガンに、とても愛着がわいた私・・・

何故そういう気になったのかはわからないのですが、
突然オルガンに勝手に名前をつけたくなりました。
(^_^;)(^_^;)(^_^;)

それで、すぐに頭にぽわんと浮かんでしまった名前が、
「K子ちゃん」・・・!!!???

本当は実名公開と行きたいところなのですが、
なぜイニシャルにしたかというと、
その名前は、W教会の牧師婦人の名前であり、
同時にダンナさんのお母さんの名前であるからです・・・
(^_^;)

あまりにも唐突な考えだし、
教会のみんなの大切なオルガンに勝手に名前をつけたなんて、
申し訳なくて教会の人には言えません・・・

でも、その日以来、私にとってオルガンを練習することは、
「K子ちゃんに会いに行く」こととなり、
礼拝の日は、「K子ちゃん、今日もよろしくね。」
などと心の中で思っていたりする私です・・・

ちなみに、W教会の牧師婦人も、ダンナさんのお母さんも、
みんなの先頭に立って、みんなを引っ張って行く、
というようなタイプではないのですが、
いつもみんなが安心してそこに居られるように
支えて下さる存在です・・・

私の奏楽も、オルガンの「K子ちゃん」といっしょに、
みんながにこにこしながら神様の前に出て、
安心して讃美歌が歌えるような奏楽をしたいなぁ、
と思います・・・
そして、「K子ちゃん」の音が、みんなの信仰を一つにして、
みんなの歌う讃美歌が、そのまま
御国の教会の讃美歌のようになったらいいなぁ、
と思います。

それにしても、私って変な奴・・・と自分でも思います・・・
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終戦の日に [でもクリ日記]

私は幼い頃から、戦争に傷ついて来た両親の話を聞いて育ったので、
どんなに論理的に武器を持つことの正当性を主張されたとしても
私は戦争は絶対嫌だし、絶対に武器を持ちたくない、と思っています。

ただ、戦争をしないでいること、武器を持たないでいることは、
実は武器を持ってしまうことよりも、
ずっと難しいことだと思います。

武器を持たない生き方を貫いて行くためには、
心の中に、かなりしっかりとした「道徳性」、
もっと突っ込んで言ってしまえば、「宗教性」がなければ、不可能です。

「宗教性」とは、実際に何かの宗教を信じているのか、
信じていないのか、ということではなく、
目に見えるものやお金に価値観を置かずに、
目に見えないもの、人間の尊厳とか、生き方とか、良心とか、
そういう価値観を大切にしているかどうか、ということです。
(非常に大まかなとらえ方だとは思いますが・・・
無神論者でも宗教的な人、という方はおられると思います。)

武器を持たずに生きるとは、
ただ武器を持たなければ良い、ということではなくて、
相手が武器を持って、私に切り掛かって来た時でさえ、
自分の全人格を賭けて、丸腰で相手の前に立つ、ということです。
(聖書にある、「右の頬を打たれたら・・・」という言葉も、
こういうことを指しているのだと思います。)

普通、できないです・・・。
特に、目に見えるものしか信じない人であれば、
これは愚かな自殺行為としか思わないでしょう。

でも、この決心がなければ、本来、
平和の実現は、できないのだと思います。
日本国憲法の第九条は、そういう覚悟を背景にして書かれた、
凄い条文なのだと、私は思っています。

日本人の多くが、今やその
「宗教性」を失ってしまったのかもしれません。

でも、この「宗教性」を一人一人が持ち、
日々各人が心の中で闘いをするのでなければ、
真の平和は決して訪れないのだと思います。

私はといえば・・・弱く、だらしない人間です・・・
おまえはその闘いが日々できているのか、と問われれば、
決してできていますとは言えない・・・
すぐに怒ったり、人を赦せなかったり・・・
戦争の種が毎日、心の中に生まれます。

それでもやはり、人々が武器を取って殺し合うような世の中は嫌であり、
誰かを殺したり傷つけたりする経験は絶対にしたくないのです。

私は武器を持って切り掛かられた時に、
堂々と丸腰で立つことができる者でありたい・・・

そしてやっぱり日本という国が、
堂々と軍隊も核も持たずに、
平和の志を貫ける国であってほしい・・・

非現実的、という批判を承知の上で、私はやっぱりそのように願います。

それは、親から教えられた戦争の悲惨さという理由、そして
何よりもキリストの十字架に従う者として、
命をかけて、そうありたいと思うのです。
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